根性で授業は出た。一週間もするとその根性もいらなくなった。人間、とにかく慣れだということだ。…ああ…慣れ、といえば、胸もばっちり感じるようになりました。わりと泣きたい。
 おかげでベッドの片方は冷えっぱなしだ。先に眠ってしまったイザークのきらきらする髪を見るともなく見ながら、ちくしょう、かわいいな、と、ディアッカはぼんやり考えていた。こんなにかわいいのにかっこいいなんてずるいな。手を伸ばし、額の髪を払うと少し身じろぎ、寝返りを打つ。ディアッカは、ふ、と笑い、あらわになってしまった背中にシーツを引き上げてやろうとした。だが、その手は途中で止まる。
 すんなりとした肌のなめらかな背中だ。ここに傷をつけるのは嫌なのだけど、イザーク本人は構わんと言うし、やはり堪えきれないときもあるので、爪の赤い跡がぽつりぽつりと走っている。きれいな、白い、しっかりした。しっかりした、大きな背中。
 男の身体だ。ディアッカは思う。思ってから、だから何なんだ、首をかしげる。そんなの今更、それは最初からわかってたこと。(本当に?) (わかって、いた)
 ディアッカはシーツにもぐりこんだ。冷たいそれに少しの肌寒さを覚えたけれど、すぐに体温が移り、なじんでいく。目を閉じる。









 ディアッカが妙だ、とイザークは思った。座学では板書どおりにしっかりノートを取っていた。それはいいのだけど、口頭のちょっとした説明や自分なりのメモ、ふと気がゆるんだときの落書きや、そんなものの一切ない丸写しのノートというのは、その持ち主の普段の様子からしてみれば明らかにおかしい。実技ではそれこそ教科書通りの、模範的というか、型通りというか、そんな動きに終始していて、舞の素養のあるらしいいつもの足捌きなどはついぞなかった。言ったことなどないけど、イザークはあれが結構好きなのに。
 一日の授業が全部終わり、ざわつく空気の中で見回すが、いつのまにだかディアッカの姿はどこにも見えなくなっていた。イザークは一瞬考え込んだが、すぐに立ち上がって歩き出した。何のことはない。書庫から借り出していた本の返却期限を思い出しただけだ。
 どれほど電子の海に浸りきろうとも繊維とインクに組み上げられた平らな世界を人は忘れきれないものらしい。書庫は小さい世界たちが眠りながら見る夢と、埃と手垢の甘いにおいに満ちていた。驚いたことにはそこにディアッカの姿があった。陽気な配色は薄汚れた背表紙と採光のための小窓の光とダイヤモンドダストの中にあってやけにしっくり受け入れられている。片手に開いた誰が読むともしれない立派な装丁のハードカバーは、無造作にページをめくられながら、少しうれしげにも見えた。

「…珍しいな、こんな所に」
「お前が来るかと思ってさ」
「ちょっとそこをどけ」
「冗談だけどさ」

 本棚にもたれる身体をどけさせると、一冊分だけ暗渠が口を開けている。隣の手の上のハードカバーを取ってそこに戻した。体温の移ってぬるくなった棚と、手のひらに置かれて温まった本。「貴様、今日はどうかしたのか」 ディアッカはふらりと身体を移した先でまた本の群れに体重を預け、こめかみを布張りの背にことりとぶつけた。「どうかしてるさ、いつだって」 手を差し伸べるのに逆らわないでいると引き寄せられて、唇と唇が柔らかくぶつかる。よりかかったままの身体もそこも少し斜めだ。「お前とこんなことしてる」 きれいな紫が薄暗がりにしらじら光る。
 自分からしかけてきたくせに、ディアッカはふいと顔をそむける。照れているのか。そうかもしれない。棚を埋めつくす、何千、何万の薄っぺらな世界が夢から覚めて、注視する気配を感じていた。構わない、見せつけてやろうさ。制服の上の前だけ開けて、シャツ越しに触れる互いに曖昧な刺激でも、もう芯を持ち始めているのがわかった。シャツの裾を引き出して手を差し入れ、臍をかすめて、腹筋をたどり、もっと上へ。

「…イザーク、」

 それでも、まだそれだけなのに、もうこんなにとろけて透き通った声で、ディアッカは呼ぶ。いつもと違うな、とイザークは思った。だがしかし、思い浮かべたいつもというのも、たかだかここ一週間程度のことでしかない。もっと聞きたい、もっと知りたいとイザークは思い、それは渇きにも近い感覚だった。じかに触れ合っている手のひらへと熱が集まっていくような気がする。

「お前さ… 彼女、作れよ」

 シャツの内側に潜らせた手がすべり落ち、指の先が下腹に当たった。ん、と、鼻にかかった吐息が落ちる。イザークはディアッカを見ていた。ディアッカはイザークに向いている。その顔を、ふっと横へずらすと、そのまま歩き出した。おざなりに服を直しながら角を曲がってイザークの視界から外れ、扉の動く音が聞こえた。イザークはまだ立っている。
 熱をつかんだと思った手のひらの中にはもう何もない。それを見失ったのか、あるいは消えてしまったのか、もしかして最初から何もなかったのか、わからなかった。つい今し方まで金色の名残を帯びて差し込んでいた光はいつのまにか黄昏に染まっている。視界一面、まるで血まみれのようだった。
 何千、何万の薄っぺらな視線たちがいっせいに覗き見の薄目を閉ざした。ような気がした。何だつまらない。
 もうおしまいか。






20110514