悪夢を見ることには慣れてしまった。砂を噛む心地で目覚めることにも。
 大体においては母の金切声の中で起き上がる。優雅で有能な自慢の母の朝の身支度は、普段と反比例するかのような、一言で言うなら惨状だ。そうやって起き出して、着替え、顔を洗い、コーヒーを飲む間に口紅の色について意見を求められたりする。正直な所どれでも似合うし、だからどれだっていいと思うのだけど、そんなふうに言えば殺されるかもしれないから、少し考えるふりをしてから一番右端にあるのを示すことにしている。それで文句を言われたことなんか一度もないのだから、やっぱりどれでもいいのだろうな。


 自分の方の身支度を済ませてから朝刊など一通り読み終える頃に、窓の外から友人の声がする。返事はせずにドアを開け、返事代わりに遅いと怒鳴ると、ぱしんと両手を合わせて謝罪か言い訳を口にしかけるから、一発自転車を蹴飛ばしてからカゴに鞄を放り込み、荷台に陣取る。文句は聞かないし、言われない。そんな時間はないからだ。いつだってぎりぎりに迎えにきてとんでもないスピードで通学路をぶっ飛ばし、チャイムぎりぎりにすべりこむのは趣味かと思っていたこともあったけど、別にそうでもないらしい。毎日朝から疲れるなんて言うから、そんならうちに寄るのをやめるかと問えばいやだと答える。なんでだ。べつに当人が遅れる分にはいくらでも好きにすればいいが、ことは自分の身にも関わる。だから毎日、遅れかけるたび、これで遅刻なら明日から来なくていいとペダルをこぐ背中へ言い渡す。そうするとおかしなことに、わりとけっこう間に合ったりするのだ。そろそろ音速くらいは超えるかもしれないと思っている。


 校門の前に立っている女教師と目が合った。おはようございまあすと叫ぶ友人ににっこりと微笑み返し、がらごろと校門を閉めていく彼女。しかし友人の悲痛なうめきに応えるかのように現れた金髪の体育教師が、おはようございますラミアス先生、と、彼女の背中に抱きついた。悲鳴を上げる彼女、早く行けというふうに手を振る彼の横を駆け抜け、校門の鉄柵の隙間をすり抜けて、彗星みたいに自転車は走る。ありがと先生と、叫ぶ友人の声が尾を引く。お前あれと仲いいなと言えば、うんそう、でもあれセクハラだよなあと笑みを含んで答える声。笑い事じゃないとも思ったが、どうせ他人事だし、訴えられるのは向こうなのだから、尊い犠牲に感謝だけしておくことにする。


 階段で担任を追い抜いた。廊下を走る生徒を咎めもせずに、ああおはようとだけ言ってよこすのがいつも通りだ。その表情も、いつも通りの仮面で読めない。いつまでたってもよくわからない人だ。


 教室に飛び込み、机に鞄を投げ出して覆いかぶさるように倒れ込む。声をかけてくる級友たちには顔は上げずに手だけ振って応える。全力疾走の直後の視界には、級友たちの黄緑やオレンジの髪はちかちかと痛くてうるさすぎる。この学校は頭髪について自由すぎやしないだろうかな。しかし自分も、他人のことを言える髪の色ではないわけだけど。
 ようやっと息を整えて顔を上げる頃、友人はまだ自分の席に突っ伏している。自転車の分のダメージだろうが、そんなになってまでよくやるもんだ。級友たちのやりとりをBGMに、ぼんやりとそんなことを思っている。宿題どうした?資料集借りなきゃ。昨日の見たかよ。うそ、忘れてた。アスラン来てない?鞄はあるのに。ああ隣のクラスだ。転校生が幼なじみだったとかで。女?男男。なあんだ、つまらん。
 そんなことごとを聞くともなしに聞き流していて、いつのまにか、友人が目の前に立っていることに気づく。きょうは機嫌が悪いなと言うのに別にと返す。しかし、顔をのぞこうとしてくるから、少し夢見が悪かったんだと言ってやる。すると奴は、怖い夢でも見たのか、と、こっちを馬鹿にするようなことを、しかし真面目な顔で言ってくる。

「夢は… いいんだ、別に。なんでもないことだ。ただ、そんなのを許容している自分のことが、どうにも情けないだけなんだ」

 友人はこまったような目をしている。ふとその視線を上げると、一拍置いてチャイムが鳴った。ざわついていた級友たちが席を立ち、ざわざわと教室を出はじめる。じゃあな、先に行ってますね、と口々に言い手を振って、何事か、笑い合いながら歩いていく。待ってないからな。お前らは、なるべく遅れて、ゆっくり来いよ。
 二人だけになった教室はがらんとして、息苦しい。友人は、すこし首をかしげてこっちを見ている。その金色の髪が光を透かすさまをわけもなく凝視しながら、乾きはりついた唇を引き剥がした。

「お前は行かなかったってことは、俺はお前のことは信じてるんだろうか。…俺は、お前に訊きたかったんだ。お前も俺みたいに、こんなふうに、こんな夢を見ているだろうかって…だけど、お前はお前の姿をしてるけど、俺だから、そんなことはわからないか」

 小さく息を吐く。足元に伸びる影が妙に色濃い。

「俺は痛いんだろうか」
「…俺は確かに、俺じゃなくて、おまえだよ。だからおまえがわかってないことなんか、わかるわけがないじゃないか」

 それもそうだなとつぶやくと、向こうは、また少し上の方を見た。チャイムがうるさく鳴り続けている。いつまでもやまないそのチャイムが、チャイムではなく、アラームだということは、ほんとうは、最初からわかっていたことだった。

「ああ、もう時間だな。その前にひとつ教えてやろうか。俺は俺じゃなくて、おまえだけど、だからこそわかることはあるんだ」

 それは言って、俺の好きなあいつの底抜けの晴天みたいな笑顔で笑った。

「おまえは俺が、おまえみたいなこんな夢を見てなきゃいいと思ってるけど、だけどそんな夢を見ていて寂しければいいとも思っているぜ!」




















 悪夢を見ることには慣れてしまった。砂を噛む心地で目覚める朝にも。
 うるさく鳴り続ける目覚ましを止める。伸ばした腕をばたりと落として、寝返りを打ち、枕に顔を押しつける。

「ああ知ってるさ、そんなことはな」

 寝起きのぼやけたような熱にまぎらせ、吐き捨てた。悪夢を見ることには慣れてしまった。だってほら、わけのわからないあんな夢よりも、朝日を浴びて始まりかけていく現実の方がずっと苦しい。お前がいない。











20111227
アンジェリカ・アッタナシオ。

Q.なぜイザークがマリューさんや不可能可能男を知っているんですか?
A.ディアッカのナイトバード・フライングです。